LOGIN第3話 同居初日に家出未遂
引っ越し当日の朝、七年間暮らした部屋から最後の段ボール箱が運び出されると、二人で暮らすには少し狭いと思っていた居間が、急に持て余すほど広くなった。
冷蔵庫を置いていた床には四角い跡が残り、母の焼き菓子の試作品を何度も焦がした台所からは、棚の奥へ染みついていた甘い匂いまで消えていた。家具のなくなった部屋で声を出すと、知らない場所のように響く。ここへ移ってきたばかりの頃、父がいなくなった現実を受け入れられず、母の前で泣くことさえ我慢していた自分の姿まで、白い壁の向こうへ置いていくような気がした。
「ひまり、忘れ物はない? 押し入れも確認したけれど、あなたは思いもよらない場所に物をしまうから、もう一度見たほうがいいんじゃない?」
廊下から戻ってきた母は、いつも使っていた黄色いマグカップを紙袋に入れながら、できるだけ普段と変わらない調子で話していた。しかし、目元は少し赤くなっている。ここで苦労したのは私だけではなく、母にとっても、この部屋は娘を一人で育て直した場所だった。
「最後に失くしたものは、冷凍庫から出てきたでしょう。私が眼鏡を入れたわけじゃなくて、お母さんが小麦粉と間違えて片づけたんだからね」
「あれは一度きりでしょう。それに、今度の家には収納がたくさんあるから、冷凍庫へ眼鏡をしまうような間違いは起きないわよ」
「収納の数と、お母さんの間違いにどんな関係があるのか分からないけれど、そういうことにしておく」
母が笑ったので、私も笑い返した。引っ越しを決める前に相談してほしかったという気持ちは消えていなかったが、この一週間、母は何度も謝り、これから家族に関わることは必ず話し合うと約束してくれた。私も母の結婚を喜びたいと思っている以上、いつまでも怒りだけを抱えているわけにはいかなかった。
玄関に残っていた二人分の鍵を管理会社へ返し、空になった部屋へ頭を下げた母に続いて、私も小さく「お世話になりました」と告げた。扉が閉まる音を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられたけれど、母には見せないように先へ歩いた。
御影家は、駅から二駅離れた住宅街の高台にあった。和臣さんが十年ほど前に改装したという古い洋館で、白い壁と濃い茶色の屋根に囲まれた外観は、私たちが暮らしていた集合住宅よりも、外国映画に出てくる寄宿学校に近く見えた。
「これ、本当に個人の家なの? 夜中に歩いていたら、自分の部屋へ戻れなくなりそうなんだけれど」
「二階建ての家で遭難できるなら、それは建物ではなく、君の方向感覚に問題があります」
門の内側から聞こえた声に顔を向けると、御影先輩が半袖のシャツ姿で立っていた。休日に制服以外の服を着ているところを見るのは初めてだったが、本人が変わったわけでもないのに、学校とは別の人に会ったような居心地の悪さがあった。
私が無意識に彼の姿を眺めていると、御影先輩は運送業者が運んできた箱を受け取りながら、不審そうにこちらを見た。
「何ですか。人の家へ来て、家主を珍しい動物のように観察しないでください」
「御影先輩にも私服があるんだと思っただけです。休日でも制服を着たまま、校則を読みながら過ごしているのかと思っていました」
「俺を何だと思っているのかという質問は、先週もしたはずです。それから、今日からは朝倉さんにとっても自分の家になるので、いつまでも人の家と呼ばないほうがいいでしょう」
悪気のない言葉だとは分かっていた。それでも、「自分の家」と言われた途端、先ほど鍵を返したばかりの部屋が脳裏へ浮かび、素直にうなずくことができなかった。
御影先輩は私の表情から何かを察したらしく、それ以上は言わず、足元に置かれた箱を持ち上げた。側面には母の字で「ひまり・本」と書かれている。
「それは重いから、運送業者の人に任せてください。腰を悪くしたら、生徒会の仕事に支障が出ますよ」
「君が心配する必要はありません。この程度で腰を痛めるほど運動不足ではありませんから。それより、箱の底が抜けそうなので、下を支えてもらえますか」
「自分で持てるような顔をしておいて、結局手伝わせるんですね」
「一人で無理に運んで落とすより、必要な協力を頼むほうが合理的でしょう。君も、できないことまで一人で抱え込まず、これくらい素直に人を頼ったほうがいいと思います」
学校で匿名相談の管理体制について争ったときのことを言われたのだと気づき、腹が立った。けれど、箱の底が本当にたわんでいたため、反論する前に両手で支えた。
二人で玄関へ入ると、和臣さんが廊下から顔を出し、「もう息を合わせて荷物を運んでいるのか」と感心したように言った。私たちは息を合わせた覚えなどなかったが、重い箱を持ったまま同時に否定すれば本を落としかねないため、何も言わず階段を上った。
二階には、廊下を挟んで二つの扉が向かい合っていた。右側が御影先輩の部屋で、左側が私に用意された部屋らしい。距離にすれば二メートルもなく、互いが同時に扉を開ければ、朝一番に顔を合わせることになる。
「本当に向かいなんですね。和臣さんは、年頃の男女に必要な距離というものを考えなかったんですか」
「この階で空いていた部屋が、そこだけだったんです。俺に部屋を移れと言うなら検討しますが、父の書斎の隣か、一階の客間しかありません」
「そこまでしなくていいです。私が御影先輩の部屋へ勝手に入ることもありませんし、先輩も入ってこなければ問題ありません」
「当然です。君の部屋に入らなければならない事情があるとも思えません」
即答されたことがなぜか少し癪に障ったが、入ってこられても困るので、私は不満を飲み込んだ。
案内された部屋には、白い机と本棚、小さなソファ、木目の柔らかなベッドが置かれていた。以前の部屋で使っていた淡い緑色のカーテンも取りつけられ、壁際には、母と一緒に選んだ古い本棚まで運び込まれている。
新しい家具で飾り立てるのではなく、私が慣れ親しんだものを残そうとしてくれたことが伝わる部屋だった。机の上には、和臣さんの字で「気に入らないところは遠慮なく教えてください」と書かれたカードも置かれている。
ここまで気を遣われると、嬉しいより先に困ってしまう。知らない家へ連れてこられた被害者のように振る舞えば、用意してくれた人たちを傷つける。一方で、今日からここが自分の家だと言われても、気持ちは簡単についてこなかった。
「気に入らないところでもありましたか」
扉の外から御影先輩に尋ねられ、私は慌ててカードを伏せた。
「別にありません。まだ見ただけでは分からないので、これから荷物を片づけます」
「では、邪魔にならないように出ます。昼食は十二時半だそうですから、遅れないでください」
「家にいるときまで時間を指定されるんですか」
「父たちは午後から必要なものを買いに行く予定です。遅れれば、全員の予定がずれるでしょう」
御影先輩は私の返事を待たず、向かいの部屋へ入った。閉じた扉を睨んでから時計を見ると、十二時半までは一時間近くある。私は箱を開け、服や本を棚へ移し始めたが、どこへ何を置いても、借り物の部屋を勝手に使っているようで落ち着かなかった。
昼食の時間になり、一階の食堂へ下りると、冷蔵庫の扉に大きな紙が貼られていた。
『御影・朝倉家 共同生活の注意事項』
表題の下には、食事が不要な日は前日までに連絡すること、帰宅が遅くなる場合は家族の連絡用グループへ知らせること、共有場所へ私物を置いたままにしないこと、入浴時間が重なる場合は話し合って決めることなど、細かな決まりが十項目以上並んでいた。
「何ですか、これは」
私が振り返ると、食器を運んでいた御影先輩が紙へ目を向けた。
「見れば分かるでしょう。共同生活の注意事項です」
「見れば分かることを聞いたんじゃありません。どうして、私が来た初日からこんなものが貼られているんですか。学校で管理し足りないから、家でも私を規則で縛るつもりですか」
「俺が決めたわけではありません。父と美月さんが話し合って作ったものです。文章の意味が曖昧だったので、俺は表現を直しただけです」
「それを普通は、作るのに参加したと言うんです。私は何も聞かされていないのに、また三人で全部決めたんですね」
母が台所から出てきて、「違うのよ、ひまり」と説明しようとしたが、私の中では、朝から押さえ続けていたものがすでにあふれ始めていた。
「部屋も、引っ越す日も、前の家を解約することも、この家の決まりも、私が知らないところで全部決まってる。お母さんは、これからは相談するって言ったでしょう」
「この決まりは、ひまりだけに守らせるためのものではないの。私も和臣さんも怜央くんも、全員で気をつけようという話で――」
「だったら、どうして全員で話すときに私だけいなかったの? 私のために部屋を用意してくれたことも、気を遣ってくれたことも分かってるよ。でも、何もかも決められたあとで、気に入らなければ言ってくださいって渡されても、嫌だなんて言えるわけがないでしょう」
母の顔から笑みが消えた。傷つけたと分かった瞬間、謝らなければと思ったが、その言葉まで喉の奥で意地に引っかかった。
御影先輩が、私と母の間へ割って入るように口を開いた。
「朝倉さん、腹を立てる理由は分かりますが、今ここで美月さんを責めても――」
「御影先輩に、私とお母さんのことまで正論で片づけられたくありません。先輩は、この家が自分の家だから平気なんでしょうけれど、私はさっきまで住んでいた家をなくしたばかりなんです」
「俺は、君が平気ではないことを責めたわけではありません」
「それなら放っておいてください。少し外へ出てきます」
私は玄関へ向かい、母が追いかけてくる前に靴を履いて家を飛び出した。門を抜けて坂を下り、住宅街の角を二つ曲がるまで歩いたところで、自分が携帯電話も財布も上着も持っていないことに気づいた。
引き返せばいいだけなのに、今戻れば、感情に任せて飛び出したことを御影先輩に認めるようで悔しかった。私は冷たい風に腕をさすりながら歩き続け、川沿いの小さな公園まで来ると、街灯の下に置かれたベンチへ腰を下ろした。
夕方が近づき、昼間より空気が冷えている。家出をするなら、せめて財布と携帯電話を持って出るべきだった。これでは家出というより、行き先も決められない散歩でしかない。
「全校生徒の前では三日で家出すると宣言していましたが、初日に記録を更新するとは思いませんでした」
聞き覚えのある声がして顔を上げると、御影先輩が黒い上着を片手に立っていた。少し急いで歩いてきたのか、呼吸が普段より速く、整えられていた髪も風で乱れている。
「家出ではありません。頭を冷やしに来ただけです」
「携帯電話も財布も持たず、上着さえ忘れて出てきた人の行動を、計画的な外出とは呼びません。家出未遂が妥当な表現でしょう」
「わざわざ追いかけてきて、言いたいことはそれだけですか」
「言いたいことは山ほどありますが、先にこれを着てください。風邪をひかれたら、君を追い出したと疑われるのは俺です」
御影先輩はそう言いながら、持ってきた上着を私の肩へ掛けた。まだ彼の体温がわずかに残っており、洗剤と雨上がりの空気が混じったような匂いがした。返そうとしたものの、思った以上に身体が冷えていたため、意地より暖かさを選んだ。
「お母さん、怒っていましたか」
「怒るより先に、自分のせいだと言って泣きそうになっています。父は車で捜しに行こうとしましたが、君が近くにいる可能性が高いと伝えて止めました」
「どうして、私がここにいると分かったんですか」
「この辺りで一人になれそうな場所は、川沿いの公園か駅前の喫茶店くらいです。財布を持っていないなら、喫茶店には入れないでしょう」
何も言い返せずに黙っていると、御影先輩は隣へ座った。ただし、上着一枚分ほどの距離を空け、私の顔をのぞき込もうとはしなかった。
「先ほどは、俺の言い方もよくありませんでした。学校で問題を処理するときのように、怒っている理由を整理すれば話が済むと思っていました」
「御影先輩が謝ることもあるんですね」
「謝罪できない人間が生徒会長を務められると思いますか。それに、君が言ったことは間違っていません。共同生活の決まりなら、君が来てから四人で話し合うべきでした」
御影先輩は膝の上で両手を組み、流れていく川を眺めながら言葉を続けた。
「ただ、この家が以前と何も変わらないまま、君たちだけが入ってきたわけではありません。父は四人で使えるように食卓を替え、玄関や廊下に飾っていた母の写真も、君たちが気まずくならないよう自分の部屋へ移しました。俺にとっても、昨日までの家がそのまま残っているわけではないんです」
私は隣にいる彼を見た。御影先輩は悲しそうな顔をしていたわけではなく、いつもと変わらない落ち着いた表情をしていた。それでも、その平静さが感情の薄さではなく、自分を崩さないために長く身につけてきた習慣なのだと、少しだけ分かった気がした。
「写真を移してほしいなんて、私は頼んでいません」
「分かっています。君たちが悪いと言っているのではなく、誰かと家族になるときは、迎える側も同じように何かを変えるという話です。父たちは、俺たちが傷つかないよう先回りしすぎて、肝心の俺たちへ相談することを忘れたのでしょう」
「気を遣ってくれていると分かるから、余計に怒りにくいんです。嫌な人たちなら、全部拒んで終わりにできるのに、お母さんも和臣さんも一生懸命で、私だけがわがままを言っているみたいになるから」
「俺には十分言っているので、我慢が得意な人には見えませんでした」
「今、少しだけ御影先輩をいい人だと思いかけたのに、全部取り消します」
「結構です。義妹からいい人だと思われることは、俺の人生計画に入っていません」
口ではそう答えながら、彼の横顔はわずかに笑っていた。私も上着の前を合わせるふりをしながら、こぼれそうになった笑いを隠した。
「帰ったら、お母さんに謝ります。ただし、共同生活の決まりは作り直します。お風呂の時間まで一方的に決められるのは嫌ですから」
「最初から時間までは決めていません。重なる場合は話し合うと書いてあったでしょう。君は最初の三行だけ読んで怒っていました」
「そういう細かい指摘をするから、話がまとまりかけても腹が立つんです」
「誤解したまま帰るよりはいいでしょう。それから、今後家出をするなら、せめて携帯電話は持って出てください。捜す側にも予定があります」
「次の家出がある前提で話さないでください。今日は失敗しただけで、次はもっと上手にやります」
「反省の方向が完全に間違っています」
そんな話をしながら坂道を上り、御影家へ戻った。門の前には母が立っており、私の姿を見るなり駆け寄ってきた。
「ひまり、ごめんなさい。あなたの言うとおり、決まりは四人で相談してから作るべきだったわ。部屋だって、無理に気に入ったふりをしなくていいのよ」
「私も、ごめんなさい。せっかく用意してくれたのに、嫌だと言いたかったわけじゃないの。ただ、前の家が急になくなって、少し寂しくなっただけなの」
母に抱き締められ、私もその背中へ腕を回した。家を飛び出したときより素直に話せたのは、隣で黙って待っている御影先輩に、言葉を整理する時間をもらったからかもしれない。
和臣さんも玄関から出てきて、四人で決まりを一から話し合おうと提案した。そのあと、母が私の肩に掛かっている上着へ気づき、安心したように笑った。
「怜央くんが迎えに行ってくれたのね。二人で少し散歩をしたら、もう仲直りできたみたいでよかったわ」
「仲直りではありません。そもそも、仲良くなった覚えもありませんから」
「道に迷った人間を回収してきただけです。散歩と呼べるほど穏やかな時間ではありませんでした」
私たちは揃って否定したが、母と和臣さんは顔を見合わせ、ますますうれしそうに笑った。どうやら、私たちがどれだけ反論しても、新しい両親には仲のよい兄妹が照れているようにしか見えないらしい。
夕食後、四人で共同生活の決まりを一から話し合った。内容が決まるまでには二時間近くかかり、御影先輩と私は入浴時間と冷蔵庫の使用範囲を巡って三度も揉めた。
それでも、私が話し合いに加わったことで、冷蔵庫の一番上には母の仕事用、中央には家族共用、下には私と御影先輩が一段ずつ使える場所ができた。小さな区切りではあったが、自分の居場所を初めてこの家に作れたようで、少しだけ息がしやすくなった。
すべて決まったところで、和臣さんが満足そうに用紙を見渡し、最後に思いついたように言った。
「月曜日からは、二人で一緒に学校へ行けばいい。怜央が一緒なら、美月さんも安心できるだろう」
その提案に対し、私と御影先輩は、それまでで最も息の合った声を食堂へ響かせた。
「それだけは絶対に嫌です」
土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。 一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱っているから迷った末、甘くないものにしたらしい。「お母さんが喜ぶと思う。仕事では甘いものばっかりだから、家だとしょっぱいもの食べたがるんだよね」「よかった。あと私、ちゃんと普通にするから。先輩が家にいるからって、変にかしこまったりしないし」 その言葉を信じて坂道を上ったのに、玄関で怜央さんが迎えに出た瞬間、美緒の背筋は見事に伸びた。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんな挨拶、私の家で聞いたことないんだけど」「ちょっと待って。私も今、自分でびっくりした」 美緒は小声で答えたが、すぐ目の前にいる怜央さんには聞こえていたらしい。彼は笑いをこらえるように口元を引き締め、代わりに一歩横へよけた。「どうぞ、上がってください。荷物はこちらへ……いや、持ったままで大丈夫です。ひまり、先に案内してあげて」「美緒はお客様だけど、視察に来た人じゃないからね。あと、荷物をどこに置くかは、リビングに着いてから決めればいいと思う」 私が先に廊下へ上がる
月曜日の放課後、美緒は私の机まで来ると、鞄を抱えたまま少し考え、こんなことを言った。「今日の話って、甘いものを食べながら聞いても大丈夫なやつ?」 朝から何度も頭の中で説明を練習していた私は、用意していなかった質問に顔を上げた。美緒はふざけているというより、行き先を決めかねている顔だった。「大丈夫だと思うけど、どうして?」「真面目な話の途中でお腹が鳴るの、嫌じゃない。私、今日のお弁当、見た目よりご飯が少なかったんだよね。お母さんがおかずの下にブロッコリーを詰めてて、食べ進めても白米にたどり着かなかった」 その説明を聞いた途端、胸のあたりに詰まっていたものが少し緩んだ。私が一日中、秘密を打ち明けることばかり考えている間、美緒は美緒で、弁当箱の底に予想外の緑を発見していたらしい。「じゃあ、どこか寄ろう。できれば、学校の人があんまりいないところがいいんだけど」「了解。駅の向こうなら、今の時間は空いてると思う」 美緒はそれ以上、教室では尋ねなかった。帰り支度を終えた私に、机の脇へ掛けたままのサブバッグを指で示し、それを受け取ると、いつものように先に廊下へ出た。 私はその背中を見ながら、今日ちゃんと話そう、ともう一度思った。 駅から少し離れた喫茶店は、窓際に年配の夫婦が一組いるだけだった。私たちは奥の二人掛けの席に座り、飲み物とプリンを注文した。店員さんが去ったあと、美緒は鞄を隣の籠に入れ、私のほうへ向き直った。「それで、引っ越しの話って?」 待ってくれていた声だった。急かされていないのに、私は背筋を伸ばした。「お母さんが再婚したことは、前に話したよね。その相手の人に、息子さんがいるんだ」「うん。じゃあ、今はその人とも一緒に暮らしてるの?」「そう。私より一つ上で、同じ学校に通ってて」 美緒の眉がわずかに動いた。私はそこで言葉を止めず、膝の上で両手を重ねたまま続けた。「御影先輩なんだ。お母さんが結婚したの、御影先輩のお父さんとで……今、四人で暮らしてる」 美緒は私を見たまま動かなかった。 窓際でカップが受け皿に置かれる音が
お茶の時間が終わって、二人で食器を洗い始めても、私は美緒への返事を考えていた。 来てほしいのは本当だった。新しい部屋を見せたいし、引っ越しのときに奥へ押し込んだ漫画を一緒に探すのも楽しそうだ。ただ、その楽しみを思い浮かべるたび、玄関で怜央さんと鉢合わせした美緒が、靴を片方だけ脱いだ姿勢で固まるところまで想像してしまう。 それなら先に話せばいい。分かっているのに、スポンジでこすっている皿の裏側ばかりが、いつまでも気になった。「ひまり。その皿、もう十分きれいだと思う」 隣でカップを拭いていた怜央さんに言われ、私は蛇口の下へ皿を移した。泡が流れ落ちた白い陶器には、傷ひとつ残っていない。代わりに、私の中の考えは同じところを何度も回っていた。「来週の土曜日って、何時ごろ出かける?」 口にしてから、聞き方を間違えたと気づいた。 怜央さんは布巾の中でカップを半周させ、持ち手の付け根を拭いた。「まだ決めてない。午前中に本屋へ行こうかと思ってたけど、午後のほうが都合がいいなら、そうする」「帰る時間も、変えられる?」「中原さんが帰ってから戻ればいいか?」 彼の声は、責めるものではなかった。それがかえって、私のしていることを分かりやすくした。 さっきまで、彼のカップを隠したくないと思っていたくせに、最初に尋ねたのが不在の時間だ。きれいなことを考えるだけなら簡単で、実際に動こうとすると、私はすぐ面倒の少なそうなほうへ手を伸ばしてしまう。「ごめん。今の聞き方、なしにして」 蛇口を閉めると、水音が途切れたぶん、声が思ったより大きく響いた。「あなたに外へ出ていてもらえば、美緒に説明しなくて済むって、ちょっと考えた。でも、それだと次に来るときも同じことになるよね」「一度くらいなら、俺は構わないけど」「一度で済まなくなる気がするの。今日は都合が悪いとか、家族がいるからとか、理由をつけるのはできるけど……そのうち、美緒を呼ぶこと自体が面倒になりそうで」 濡れた手をタオルで包みながら、私は食器棚を見た。 そこには母が持ってきた皿と、この家にもとも
土曜日の午後、私は焼き菓子を六種類も皿に並べてから、さすがに少し張り切りすぎたと気づいた。 紅茶のサブレに、焦がしバターのフィナンシェ。薄く切ったレモンケーキと、小さなマドレーヌ。そこまではよかったのに、甘いものばかりでは飽きるかもしれないとチーズのクッキーを足し、最後に、自分が食べたかったという理由だけでチョコレートのパウンドケーキまで加えてしまった。 母の店で選んでいるときは、どれも少しずつに見えたのだ。ところが家の皿に移した途端、それぞれが急に存在感を主張し始めた。 風邪はすっかりよくなり、木曜日から学校にも戻っている。食欲も元どおりだとはいえ、これは回復の証拠としては度が過ぎている気がした。「……何人来るんだ?」 リビングの入り口で足を止めた怜央さんが、テーブルと私を交互に見た。 制服ではなく、薄い灰色のシャツに黒いパンツという格好だった。家では何度も見ているはずなのに、わざわざお茶に誘ったせいで、今日は来客を迎えたような気分になる。そのくせ彼はこの家の住人なので、私が出し忘れたコースターを迷いなく棚から取り出した。「二人だけですけど。何か問題でも?」「問題というか、俺の知らないところで美月さんたちの分も用意したのかと思って。二人とも夕方まで戻らないだろう」「全部食べなきゃいけないわけじゃないから。好きなのを選べるようにしただけ」「それなら、袋のまま残しておいてもよかったんじゃないか」 正論だったので、私はポットの蓋を直すふりをした。 看病のお礼にお茶をいれる。それだけの約束だったはずなのに、いざ準備を始めると、少ないと思われたくないし、好みに合わないものばかりでも嫌だった。迷ったものを全部買った結果が、この小さな菓子売り場である。「怜央さんが何を好きなのか、よく分からなかったんだもん。甘いものは食べるけど、自分から選んでるところ、あんまり見たことなかったし」 彼は皿に目を落とし、今度はひとつずつ確かめるように眺めた。「それで、これだけ選んだのか」「言い方に気をつけて。いま私、自分でも少し反省してるから」「いや。ありがとう」
翌朝、私は学校を休んだ。 熱が下がりきっていなかったこともあるけれど、制服に着替えるところを想像しただけで疲れたので、母に休もうと言われたときには素直にうなずいた。昨日あれだけ人の手を借りておいて、また途中で動けなくなるのは嫌だったし、何より、布団が私を手放す気配を見せなかった。 怜央さんは登校前、扉の外から声をかけてきた。「学校から必要な連絡があれば、帰ってから伝える。放課後レターの資料も、今日は開かなくていいから」「その言い方だと、私が隠れて仕事をする人みたいなんだけど」「違うなら安心した。じゃあ、いってくる」 反論する前に足音が遠ざかった。枕の下には、昨夜から気になっていた再開案の印刷物が一枚だけ挟まっている。見つかっていないはずなのに、私は誰もいない部屋でそれを抜き出し、机の引き出しへしまった。 代わりに目に入ったのが、昨日の看病の予定表だった。 母が書き足した、怜央さんも早く寝ること、という項目の隣に、鉛筆で小さく『できました』と書いてみる。ところが、子どもの宿題を採点しているようで落ち着かず、すぐ消した。消し跡を指で払っ
次に目が覚めたとき、窓に映る部屋のほうが、外の景色より明るくなっていた。机の隅には小さな照明がついていて、カーテンの向こうから、車が坂を上っていく音が聞こえる。喉はまだ痛いけれど、布団から腕を出すのさえ億劫だった夕方よりは、少しだけ体を動かす気になれた。 枕元の水を飲んでいると、お腹が鳴った。寝る前には桃のゼリーだけで十分だったくせに、私の胃は回復の手柄を独り占めする勢いで働き始めている。 スマートフォンで母に起きたことを伝えると、ほどなく廊下から足音がした。ただし、ノックに続いて聞こえたのは、母ではなく怜央さんの声だった。「夕飯、少し食べられそうか。美月さんが、卵の雑炊ならあると言ってる」「食べたい。自分で下りるから、置いておいてもらっていい?」「持ってくる。階段を往復する元気があるなら、その分を食べるほうに使ってくれ」 それには素直に甘えることにした。さっきまでなら、自分でできると言い張っていたかもしれないけれど、足を布団から出した途端に床の冷たさを思い出し、私の自立心はあっさり引っ込んだ。 少しして入ってきた怜央さんは、湯気の立つ器を載せた盆を机に置いた。卵の黄色に、細かく刻んだ青菜が混じっている。だしの匂いを吸い込むと、急にお腹







